茶の間でおしゃべり

日々あれこれ思うことを書いています。気ままなおしゃべりを聞いてください。体調不良のときもあるけれど、それなりに自分のペースで生活したいと思っています。

フォーリーブス

 

 

昨晩、ボランティアの作業を家でしながら、

ケーブルテレビかけていました。

言い方が、逆か。

 

見ながら、じゃなくて聴きながらの作業。

 

そこに登場したのが、なんと、フォーリーブス

曲名は、たしか、夏の誘惑。

 

フォーリーブス、知ってます?

 

私はすごく懐かしかった。

かわいかったなあ、あの頃の私は。

 

聴きながら、

あ、この声は青山君。この声は江木君。

なあんてことまで、頭に浮かんできました。

 

ン十年ぶりに聴いた曲なのに、ボケた頭にも、

こういう記憶が残っているんだあって、びっくり仰天です。

 

だって、フォーリーブスですよ。

フォーリーブス

昔過ぎる。

懐かしすぎる。

 

 

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自己肯定感がこんなに低くなっているのは、なぜ?

先日も書いたけれど、

元の仕事場の知人と会った。

夕方からしゃべり始めて、4時間以上、しゃべっていた。

 

彼女は、まだ現役で働いている。

働いている人は、生き生きしている。

疲れたよ~~と言いながら、充実感にあふれている。

とっても、うらやましかったのが事実。

その疲れは、うらやましいぞ~~って、思った。

彼女は、私の気ままな生活を「いいなあ」と言っていたけれど。

でも、きっと、退職すれば、喪失感みたいなものを感じるのではと思う。

 

働くということは、社会に参加していること。

自分の居場所が社会にあること。

 

じゃあ、社会に出て働いていない自分の、社会参加はどうするか。

社会のお役に立っていないのは、人として、いかがなものか。

そう、思ってしまう。

 

自分の家族や友人のお役には立っていると思う。

でも、それって社会参加じゃないよね。

それでもいいのかな。

 

テレビで、働くということが議論されていた。

人は、働くのが当たり前。

働けるのに働かないのは、怠け者。

そんな感じだった。

妥当な意見だね。ごもっとも。

 

 

定年まで働いて、退職した人たちは、

私のように年金生活者は、

どうやって社会参加しているんだろう。

どうやって、自分の存在価値を確認しているのだろう。

 

他の人のブログを読ませてもらっても、

よくわからない。

 

社会参加しなくて、

まだ、働けば働けるカラダなのに、

趣味に生きていていいのかなあと思う。

 

毎日、好き勝手に暮らしている。

もちろん、基本的な家事などはするけど。

市役所に行ったり、家庭事務をしたりもするけれど。

 

でも、

読書したり、散歩したり。

(読書は、働いているときから、かなりしていたけど)

たまに預かる1歳半児と遊んだり。

(最近は、遊んでもらってるのか?)

手芸をしたり、断捨離したり。

(終活の意味も少しある)

昭和ヒトケタのお付き合いをしたり、医者に連れて行ったり。

友人との旧交を温めたり、ライブに行ったり。

こんな、世の中の役立たずでいいのか。

いいわけが、ない。

 

 

しかし、

いつまでも働いていて、

若い人に職場を明け渡さないのもなあ、とも思う。

 

定年まで働いたから、もう自由にしていいんだよ、

という声も聞こえる。

 

退職して、もう一年たつのに、

まだ、私の気もちは、ざわざわと揺れている。

仕事に満足して、やり残したことはないと思ったのにな。

燃え尽きてやめたと思っていたのになあ。

きっぱり、かっこよくやめたと思ったのにな。

 

 

ボランティアをさせてもらっている。

自分なりの社会参加と思って。

でも、それって、動機が不純なのではないか。

まるっきり、自分のためだもの。

ボランティアをさせてもらってるって、

声高に言うのは、恥ずかしいことだと思う。

(させていただく、という言い方は、昔から好きじゃなかった。

でも、なんだか、この言葉、使っちゃってるな、今。)

こんな奴に、ボランティア、してほしくないだろうな。

などといろいろ考えてしまう。

 

私は、今、自分がどうしたいのかが、よくわからない。

 

還暦過ぎて、いい大人なのに、

生き方をこんなに迷っている人って

いるんだろうか。

自分の生き方を肯定できないままでは、これから先も、

心からの笑顔が出せないかもしれない。

 

「それで、いいんだよ」

という言葉を、誰かからかけてもらいたいのだろうか。

いいや、違う。

「それで、今の状態で、いいんだよ」

という言葉は、すでに、周りの人からは貰っているもの。

 

自分が自分に

「それでいいんだよ」

って言えなくちゃだめ。

自己肯定感がこんなに低くなっているのは、

どうしてなんだろう。

 

ここまで書いたのを読み返しても、

何がいいたいのか、

よくわからない。

書いてる本人がわからなければ、

読んでくださっている方には、

もっとわからない。

すみません、駄文を書き散らして。

 

そういえば、どこかに、

(  )や、アンダーラインや、太字などが多用されている文章はへたくそだって、書いてあったっけ。

今回、(   )が多いな。

 

以前も似たようなことを書いたような気もするし、

また、同じようなことを書くような気もする。

 

要するに、暇だからこんなこと書いてられるのよ。

って言われてる気がする。

苦労のない人だから、こんなこと言ってられるのよ。

って言われてる気がする。

(実際は、人に言いいたくない苦労がいくつかあるけど、書かない)

 

 

今日の、「世迷い言」を、最後まで読んでくださったあなたは、

ほんとうに、心の広い、善い人です。

ありがとうございます。

きっと、いいことありますよっ!!

 

とりあえず、元気出して、今日もがんばります。

 

 

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静かに読書  校閲ガール

 

 ゆっくりまとめて時間が取れたので、

読書を楽しめました。

 

校閲ガール。

宮木あや子 著。

 

この本を手にとったのは、テレビドラマで見たから。

 

オニちゃんファンの私、久々に、ドラマを欠かさず見ました。

内容もとてもおもしろくて、オニちゃんだけでなく、

主人公のファッションも仕事の鬼具合も、楽しめたので、

じゃあ、原作はどんなのかな、と思って、読みました。

 

ドラマとは、設定が少し違いましたが、

頭の中では、オニちゃんとさとみさんが、動いていました。

 

おもしろかったです。

 

表紙のカバーを外し、本の表紙を見たら、

そこに初校の原稿が印刷してありました。

 

おお、校閲って、こんなに赤入れるんだ、大変だなあ。

でも、こんなに間違う作家っているか?

なんて、思ってしまいました。

 

悦子の一生懸命さ、もう私には、ないなあ。

と、ちょっと寂しくもなりました。

 

一生懸命な人って、応援したくなります。

 

そして、いまさらながら、読書っていいな、とも思いました。

自分はもうできないことを、本の中の人に演じてもらって、

その気持ちを味わえるから。 

 

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